お菓子の家(第2話)


北海 ルドルフ飛行場 201X年/11/13 10:28 FS-04 11-0109号機 "ヘクセ"


「グレッチャー、ヘクセだ。着陸誘導を」
「了解ヘクセ、ランウェイ15 ウインド230、10ノット 視程5マイル」
彼女は短く着陸許可を要請する。
フィヨルドの奥深く、切り立った崖の合間に魔女の家―正確には帰る場所と言ったほうがいいかもしれない。
がある。
中央には1500mの短い滑走路があり、周囲にこじんまりとした兵舎や格納庫が立ち並び、
桟橋に繋がれた輸送用の飛行艇の翼にはうっすらと雪が積もっている。


峡谷の中を複雑に絡み合いながら吹き抜ける風を軽くいなしながら彼女は滑走路を目指す。
ギアダウン、フラップ15度。
抵抗の増えた機体はゆっくりと高度と速度を落とし、反動でハーネスがしなやかな肢体に食い込む。
「ヘクセ、インサイト
管制塔からの目視確認のコールが入る。滑走路の進入誘導灯に機軸を重ね、さらにフラップの角度を大きく下げる。
フラップ30度、フレアー。
最大までフラップを下ろし、スロットルを絞る。
2基のターボファンエンジンの騒音が小さくなり、排気ノズルが大きく広がる。
主翼の吹き下ろす風が機体を優しく受け止める。地面効果でゆっくりと着陸禁止帯を飛び越え、タッチダウン
固いイジェクションシートを通じて接地の衝撃に唇を噛みながら彼女は操縦桿を前に倒し、ノーズギアを接地させる。一番手前までスロットルレバーを引き、エアブレーキを作動させる。カナード翼が下を向き、ラダーが左右それぞれ外側に開いて空気抵抗を一気に増大させる。
慣性で前に投げ出される感覚とともに、地上に戻ってきた安堵感を全身で感じる。
機体は速度を落とし、強靭な主脚に装備されたブレーキが残りの速度を奪ってゆく。
滑走路の3分の2を通過したあたりで機体は完全に停止した。沈み込んでいた機首がノーズギアのサスペンションによって浮き上がる。
「お帰り、ヘクセ。 4番スポットだ」
「ん、了解」
もう酸素マスクは必要ない。ロックを外してマスクを腿の上に載せて大きく深呼吸をする。
霧で少し湿り気を帯びた空気が乾燥した喉に心地良い。
ブレーキを解除して指示されたエプロンの区画へ向かう。
待機している整備員たちが手を振ってくる。


「我らが魔女様のご帰還だ。キルマーク準備しとけよ!」
機付長が横に並ぶ部下に声をかける。魔女はキャノピーを開放して手を振りかえしてくる。
機体がエプロンに停止するとすぐに梯子が掛けられ、機付長が素早く駆け上がる。
魔女はヘルメットのストラップを外し、機付長に渡す。優しげな瞳と整った顔立ち。長時間に渡る低空飛行の疲労で少し上気した頬が艶めかしい。
「今日の戦果は?」
「三隻。 それと機銃がちょっとズレてたからあとで調整、よろしくね」
魔女は優しく微笑みながら左手の指を立てる。
「へい、機銃は点検後に調整しやしょう。お前ら! 格納庫に運ぶぞー!」手を借りてコクピットから立ち上がり、ステップを降りる。
ドーリーが黄色い警告灯を回しながらやってきて魔女の機体のノーズギアにフックを接続する。コクピットの横には半分沈んだ船の記号が16個並ぶ。
魔女が髪をまとめていたゴムを外すと汗でしっとりと湿った黒髪が広がった。
額に張り付いた前髪をかき上げてピンで留めると、機付長からヘルメットを受け取る。
「さて、と…」
濃緑のフライトスーツの胸元を広げて体を冷まし、空を見上げる。霧が晴れ始め、太陽が雲の合間から申し訳程度の暖気を送ってくる。
海の方に目を向けると非番の兵が地元の住民に混じって釣り糸を垂れていた。



「ただ今戻りました」
魔女は背筋を伸ばして基地司令に敬礼をする。中年の司令は書類の整理をやめて軽く敬礼を返す。
「うむ、ご苦労だった中尉。掛けてくれ、今紅茶でも淹れさせよう」
「では、お言葉に甘えて」
魔女は革張りのソファーに腰を下ろし、窓の外に目を向ける。低いエンジン音を響かせながら中型輸送機が着陸してくるところだった。
この基地は北の海を抜ける船を防ぐための基地の一翼を担っている。
基地とはいっても対艦攻撃機と水上戦闘機の混成飛行隊が配備されているだけの小さな飛行場だ。元々は道路もまともな港もない小さな漁村だったが、耕作に適さない土地を国が買い取って軍民両用の滑走路に仕立て上げた。
司令は手元の受話器を取り上げ、酒保に電話を入れる。
「あぁ、中尉に紅茶を、ワシにはコーヒーを頼む。 中尉、ミルクと砂糖はどうするかね?」
受話器を口元から離した司令が魔女に問いかける。
「ミルクと、砂糖は…2つお願いします」
「ミルクと砂糖を2つだ。あぁ、わかった」
司令は受話器を下ろし。魔女の向かいのソファに座る。二人の間にあるテーブルの上に飾られた主力戦闘機の模型が陽光を浴びてキラキラと輝く。


「で、今日はどうだった?」
「情報通り、フリゲート艦と高速輸送船です。運の良かった方は機銃で止めをさしました」
司令の質問に淡々と答える。
「船員の脱出は」
「救命ボートが2艘、おそらく運の良かった方でしょう。」
自分の記憶を辿り、海上の様子を答える。自分を指差し、見上げる船員たちの畏怖と憎しみの詰まった視線を思い出す。
「そうか、とにかくご苦労だった」
「失礼します、コーヒーと紅茶です」
若い兵がうやうやしく頭を下げて司令と魔女にコーヒーと紅茶を出す。
司令が頷くと叩けば音がしそうなほど硬い敬礼をして退室していった。
魔女はティースプーンでカップの中の紅茶を軽くかき混ぜ、ミルクを注ぐ。ぐるぐると渦を巻いて混ざっていく二つの液体を見ながら、祖国の渦潮の名を冠した海峡を思い出す。
「今回の出撃で19隻か、そろそろ魔女狩りでもありそうだ」
「落されたら、異端審問でもされるんでしょうか?」
司令の言葉におどけた冗談を返しながら角砂糖を沈める。毛管現象で隙間に入り込んだ水分が角砂糖を解体しながら引きずり込む。
「なぁに、海に落ちても悪魔が支えてくれるさ。実際、共和国は大規模な護送船団、それも空母付きのを組織しようとしてるって噂だ」
「空母、ですか」
魔女はこれまでの経験を照らし合わせる。シミュレーターでの仮想戦闘や海軍との合同訓練でやりあったことはあったが、どれも厳しい戦いだった。
「なに、空母と言っても正規空母じゃない。おそらく揚陸艦ベースの軽空母だ」
それでも攻撃を仕掛けづらくなることは確実だろう。
「それで、上はなんと?」
水上機飛行艇を増援で送るそうだ」
王国軍には本格的な水上機はない。共同開発のゼーヴィント水上戦闘機が離島に配備されているくらいだ。そして足の長い機体は西部戦線と南の内海に回されている。
北の海は水上機飛行艇によって守られているのが実情だった。
魔女はカップに口をつけたまま微かに眉を寄せる。
「まぁ、空母が動けばいやでも目立つさ」
指令は足を組み、自分もコーヒーを啜る。共和国軍の正規空母はこれまで4隻が確認されているが、開戦以来損耗を恐れて制空権かでしか活動していない。
だが旧式の揚陸艦を改造した空母は5隻が活発に活動中で、内海での上陸支援や威圧に駆り出されている。
正規空母が出張ってくる可能性は?」
魔女はカップを降ろすと。唇に残った紅茶をぺろりと舐めとる。彼女は意識していないだろうが、その仕草の一つ一つが艶めかしい。見惚れていたことに気付いた司令は足を組み直す。
「…まずないな」
司令の態度の変化を素早く察した魔女は訝しげな視線を向ける。
もし本当に空母とやり合うことになるなら、これまでにない過酷な任務になるだろう。これまでのように単機低空侵入では危険過ぎる。文字通り飛んで火に入る夏の虫、といったところか。
「では私はこれで、紅茶をありがとうございます」
魔女は小さくお辞儀をして立ち上がった。ティーカップの中身はいつの間にか空になっている。
「あぁ、また何かあったら伝えよう」
最後にもう一度頭を下げて魔女は扉を閉める。汗の乾いた髪がさらりと揺れた。司令はそれを見届けると大きく溜息をつく。冗談めかして言いはしたが、魔女自身もうすうすと自分の重要性に気づいているのだろう。


熱い湯が白い肌を伝って床へと零れ落ちる。魔女はその場で向きを変えて汗を溶かし込んだ泡を洗い流す。
引き締まった身体についた筋肉を女性らしい丸みが包み込んでいる。惜しむらくはそれを見られるのはごく僅かな女性兵士だけということだ。
魔女は蛇口を閉じてタオルで顔を拭う。髪の先からぽたぽたと水が垂れた。
髪を大雑把に拭うと体に残った水滴を取り、下着に手をかける。
飾り気のないシンプルなデザインだが、官給品なので割安だし、なにより実用性重視で蒸れにくいので彼女は結構気に入っている。
白いメッシュシャツを頭から被り、ブラウスに袖を通す。衣擦れの音が止むと魔女は紺色の王国空軍の制服に着替え終わっていた。鏡に写った自分の姿を確認して裾や襟を正す。胸元には真新しい記念章と撃沈章が付けられているが、沈んでゆく船を思い出すと小ささの割にはそれらがひどく重く感じられた。
脱いだフライトスーツと下着を手早くランドリーバッグに纏めて小脇に抱えると魔女はシャワー室を後にした。
「お、魔女さまじゃないか」
丁度ドアを閉めたところでこれから出撃するらしい二人組が魔女に声をかける。
「なんだ、二人はこれからか」
魔女は聴きなれた声に振り返る。栗色の短髪のがっしりした体型の男と、金髪のくせ毛の男がヘルメットを抱えて敬礼をする。魔女の方も微笑みと敬礼を返す。
「国際条約に則った上空援護だァよ。ったく」
大きくため息をつきながらがっくりと肩を落とす。彼らは水上機隊のパイロットにして魔女の部下たちだ。といっても対艦攻撃はもっぱら魔女の領分で彼らはその援護と護衛、ないしは保険といった役回りだ。
「ま、姐さんの事後処理が俺らの仕事ですからねぇ」
魔女は眉をしかめ、したり顔で処理、の部分を強調して言った金髪のくせ毛の青年の頬を抓る。
「サメと寒中水泳でもしてなさい!」
「あががががが」
白い指先が真っ白になるほど力を込め、魔女はぐいぐいと引っ張る
「いつつつ…」
「じゃ、いってきます」
短髪の男が青年を小突いて引きずるように出口へと向かっていった。
「頑張ってね」
魔女の言葉に二人は親指を立てて応える。


カタカタと、指がキーボードの上で軽いステップを踊る。時折タン、と入力内容を確定させる音がパーテションの中に響く。
―07:56 13式対艦誘導弾4発を発射、全弾が命中。護衛艦と輸送船アルファを撃沈。
―08:06 輸送船ベータに対し機銃による攻撃を行う。
―08:12 船団の全滅を目視及びレーダーで確認。RTB
 出来事をフォームに入力し、IDカードをリーダーに読み取らせて署名を付加する。もう一度全体をチェックすると端末を操作して担当部署に報告書を送信する。
魔女は大きく伸びをして凝った肩をほぐす。
「もうこんな時間か」
壁にかけられた電波時計は4時を回ったところを指している。愛機の機銃の調整はどうやら明日になりそうだ。魔女はデスクの引き出しから砂糖菓子を取り出して頬張る。生姜の辛さと砂糖の甘味が口の中に広がる。退屈なデスクワークの合間のささやかの楽しみの一つだ。魔女にこれといって趣味はないし、基地のそばの街に行っても女性が楽しめるような場所はない。せいぜい酒場でダーツを投げるくらいだ。興味本位で言い寄ってくる男は多いが、彼女の素っ気無い態度にすぐに離れていく。
―それでいい。私は魔女なのだから、童話に出てくる悪い魔女のように一人ぼっちでいい。


宿舎に戻り、部屋の明かりをつける。制服を脱いでハンガーに掛ける。ゆったりとした部屋着に着替えると、ベッドの上に倒れこむと、荒い毛布の繊維が頬を刺した。乱れた髪が目の前に広がる。


いつからだろう、魔女と呼ばれるようになったのは。
少なくともこの基地に配属されてからであることは確かだ。最初この基地に機体と共にやってきて街を歩いているときに誰かが自分を指差して黒い魔女だ、と呼んだのが原点だったか。
ヘクセ(魔女)、というコールサインは自分で望んでつけた。特に異論はなかったし、周囲もそれを薦めていた。今となっては文字通り敵の輸送船に災厄をもたらす文字通りの黒魔女となっている。
机の上に置いてある家族写真が目に入る。父は厳しく、母は優しかった。3つ下の弟も自分と同じようにパイロットを目指すと息巻いていたが、最近は殆ど連絡がない。年のはじめに実家と航空学校の同期から新年の挨拶が何通か来ただけでそれっきりだ。


―誰とも一緒にいなければ、誰かがいなくなっても寂しくない。
そう自分に言い聞かせながら周囲に見えない壁を作り、一人で飛び、一人で殺す。死ぬ時も、多分一人だ。
それでも、心の空白を埋めるには足りない。
魔女だって、人間の心を持っている。