Die Adler(第31話)

北海 グレートブリテン島沖100マイル 201Y/5/16 08:49 FS-04 09-0716号機 "アドラー"


重い対艦ミサイルがなくなり、身軽になった水鳥は低い雲を見下ろしながら南西へと飛ぶ。
鷲は愛機の操縦席の背もたれに体を預け、ぼんやりと空を眺めていた。
時折聞こえる味方の無線は艦隊戦が王国側の有利に推移していることを伝えてくる。
主力艦二隻を失ったのだ、たとえ残った戦力が同じでも共和国艦隊の士気は崩壊寸前だろう。
「ん……?」
ふと上を見上げた鷲は黒いしみの存在に気づいた。
キャノピーにへばりついた汚れかと思い首を動かしてみたが、それは濃い青色の空の中で切り取られたように浮かんでいる。
「ゴライアス、こちらエコー1、上空に並進する機影あり。あれは味方か?」
「エコー1、こちらではそのような機影は確認していない。もう一度確認せよ」
管制機のレーダーからははっきりと捉えられるはずなのに、その影は真っ直ぐにこちらと同じ方向目指して飛んでいる。
「隊長、こちらからも見えます」
「味方のオイレかもしれん、IFFを確認する」
だが、味方機であればそれを示すはずの信号を送り返すはずの敵味方識別信号は返って来なかった。
「IFFの故障か?」
鷲は首を傾げ、同じ方向へ飛ぶ機影に怪訝そうな目を向けた。


レイピアの電子センサーが自機にむけて発信された信号を解析し、王国軍の敵味方識別信号であることをシェスタコフ中尉に伝えた。
「王国軍の敵味方識別信号です」
「レーダー照射はあるか?」
「いえ、ありません」
「無視しろ。最新の気象データが欲しい、出してくれ」
シェスタコフ中尉は頷き、王国の気象庁に衛星経由でアクセスした。
風は弱く、気流も安定している。この条件ならばもうすぐ爆弾を投下できる。
「出ました、投下予定ポイントまで30秒」
「安全装置を解除する。起爆装置はグロナス座標とリンク」
「はい」
シェスタコフ中尉の指がディスプレイの上で踊り、次々に諸元を入力していく。
「済まないな。こんな役目を負わせて」
ミハイルはポケットから解除コードの書かれた樹脂ケースを取り出し、封を切って中に収められた解除コードを入力する。
「二人なら、罪は半分ずつです」
シェスタコフ中尉も前席と同じように解除コードを入力した。あとは、前席と後席が同時に解除ボタンを押せばレッドハンマーの信管は起動する。
「……そうだな」
「そちらの合図でどうぞ」
「3、2、1、解除!」
二人は同時にメインディスプレイの解除ボタンに触れた。
『安全装置解除』
機械音声とともにレッドハンマーの安全装置が解除され、起爆装置に電流が流れる。
「レッドハンマー、信管接続。諸元入力完了」
シェスタコフ中尉がレイピアの火器管制装置を爆撃モードに切り替える。
「ダスヴィダーニァ(さよなら)」
ミハイルはそうつぶやき、発射ボタンを押した。
微かなモーター音とともにレイピアの腹に設けられたウェポンベイが開き、爆弾が切り離される。
大空に飛び出したレッドハンマーは、折りたたまれていた翼をひろげて一度限りの飛翔を始めた。


黒いシミがキラリと光った。
「えっ?」
魔女もそれに気づいた
「ヘクセ、今何か光らなかったか?」
「見えました」
魔女は頷き、じっと空の一点に目を凝らす。黒いしみが二つに増えたように見えた。
「高度が……落ちてる」
「俺には二つにわかれたように見えた」
「不明機、反転していきます」
二つにわかれた影のうち、大きい方の影は白い弧を描きながら右へ旋回してゆく。
「ゴライアス、不明機が何かを投下した」
「エコー1、こちらのレーダーではそのような機影は確認できない」
「チッ……接近して確認する。ヘクセ、ついてこい」
「はい」
魔女はスロットルを押し込んで上昇する鷲についていく。
「航空機……ではないですね」
それは飛行機と呼ぶにはあまりにも小さく、いびつな形をしていた。
「滑空爆弾だな。それも特大サイズのだ」
機体を飛行物体に近づけた鷲はそれが何なのかを確信した。
形こそ最近導入の始まった誘導爆弾に似ているが、大きさはその数倍はある。
「この方位……まさか、ロンドンに?」
魔女は爆弾の飛んでいる方向と自分たちの目的地が同じ方向にあることに気づいた。
「ヘクセ、計算問題だ、毎秒3メートル沈下する馬鹿でかい紙飛行機はこの高度からだと何分飛び続ける?」
「え、ええと、今の高度が2万7千だから、メートル換算で9千、3千秒飛べるので約50分です」
いきなり出された問題に魔女は戸惑いながらも一つ一つ検算しながら数値を計算する。
「オーケイ、こいつの最終到着地はロンドンだ」
「まさか!?」
魔女の声が引きつった。ロンドンへ向けて飛ぶ一発の爆弾、レーダーに映らない敵機。
「中身がなんだろうと、ろくでもない代物に決まってる」
弾頭が何かしらの大量破壊兵器であることは魔女にも想像がついた。
「ヘクセ、ちょっと離れろ」
魔女はスロットルを緩め、鷲の機体から距離をとる。
「これは……真似するなよ」
鷲はさらに爆弾に近づき、右隣の位置を維持する。
「何を!?」
戸惑う魔女の前で、鷲の機体はいっきに左に傾いた。
「くそ、外したか」
ライアーの主翼は滑空爆弾のすぐ横を掠め、主翼の生み出す乱流が滑空爆弾を揺らした。
外乱によって安定を崩された滑空爆弾の小翼がピクピクと動き、すぐさま水平に復帰させた。


ミハイルは操縦を自動に切り替え、深く息を吐いた。北東の回収ポイントに到着したら機体を自爆させて救助を待つ。その頃にはロンドンは数千度の炎に焼きつくされ、跡形もなく消し飛んでいるだろう。
「レッドハンマーはどうだ?」
ふと爆弾の状況の気になったミハイルはシェスタコフ中尉に問いかけた。
「30秒おきにグロナスを中継してフライトデータを確認しています」
「順調か?」
「はい、今のところは問題なくロンドンに……えっ?」
シェスタコフ中尉はフライトデータの情報のうち、飛行姿勢のデータに異常な数値が出ていることに気づいた。
「何かあったか?」
「今受信したデータを確認したんですが……15秒前に不自然な振動が検知されました」
「出してくれ……嫌な予感がする」
ミハイルの指示にシェスタコフ中尉はすぐに対応し、前席のメインディスプレイに同じデータを表示した。
風や乱気流にしては不自然な振動の仕方だった、
「赤外線センサーで見れるか?」
「ダメです、遠すぎます」
距離があるため、電波を発することなく機体後方を監視できる赤外線センサーでは様子はわからない。
「反転する」
ミハイルは自動操縦を解除し、機体を再び南西に向ける。
「レーダーをアクティブに」
「了解、出します」
レーダー画面上には三つの機影があった。一つはレッドハンマー、もう二つは王国軍機の戦闘機だ。
「ヤツは何を……」
敵機のうち片方は爆弾に寄り添うように飛んでいる。その距離は不自然なほど近い。攻撃するならばもう少し離れて飛ぶはずだ。
「っ……!」
火器管制システムをレーダー誘導ミサイルに切り替えたミハイルは舌打ちした。敵機が爆弾に近すぎるため、ミサイルの攻撃ではでは爆発にレッドハンマーを巻き込んでしまうおそれがある。
ミハイルは右後ろを振り向いた。
ストレーキには三銃身の25ミリ機関砲が収められている。
探知されることなく接近出来るレイピアならば片方を気づかれることなく撃墜できる。
「中尉、もう少しだけ付き合ってくれ」
ミハイルはスロットルを押しこみ、機首を下げた。
「はい、お供します」
シェスタコフ中尉は静かに答えた。
大推力エンジンと重力の助けによって黒い鳥は加速しはじめ、やすやすと音の壁を超えた。


――くそ、マズいな。
鷲の視界の端に海岸線が映った。この爆弾は海上で落とさなければ地上に被害が出る。
もう一度爆弾に近づき、ゆっくりと機体を寄せる。少しだけ操縦桿を傾けて機体を滑らせ、徐々に滑空爆弾に近づける。
「もう少し、あと……ちょい……らぁっ!」
空爆弾の細長い翼をライアーの太い主翼が叩いた。爆弾はバランスを崩し、先端を斜め上に向ける。
設計の想定を超える空気抵抗が折りたたみ式の翼の基部にかかり、翼の折れた爆弾は錐揉みしながら高度を失っていき、北海に没した。
「隊長、ご無事ですか?」
魔女の心配そうな声に鷲は不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ、ふははは。約束は果たせそうだな、ハヅキ中尉」
鷲のライアーの左翼も先端が破損し、補助翼が欠けていた。警告音が機体損傷を伝える。
「ゴライアス、不明機の投下した爆弾を無力化した。大量破壊兵器の可能性あり、海軍の艦艇を向けてくれ」
「了解、コルベットがその近辺にいる。回収に向かわせる」
「さぁ、こんどこそ帰るぞ」
「はい、帰りましょう」
それまで離れて様子を見ていた魔女の機体がいつもの位置に戻る。


「クソッ……」
ミハイルは操縦桿をきつく握りしめた。
「レッドハンマー、信号消失しました……」
「最期の希望もなくなったな」
ミハイルは自嘲気味に呟くと、火器管制装置を空対空戦闘に切り替えた。
「すべてのステルス機能を切れ」
ステルス状態を切れば、レイピア本来の運動性能を最大限に引き出すことができる。
「しかし少佐!」
「やれ!」
シェスタコフ中尉は肩を震わせ、メインディスプレイに触れた。
「近接格闘戦モード、アクティブ」
レイピアを構成するすべての要素が闇に紛れる怪鳥から空を制する猛禽へと切り替わっていく。エアインテークを覆っていたレーダーブロッカーが引き込まれ、機首の複合センサーユニットが二羽の水鳥の姿を捉える。
「死ねぇっ!」
レイピアの主翼の膨らみが開き、収められていたミサイルが飛び出す。


「機体の損傷がよくわからない、ヘクセ、見てくれ」
鷲の機体の損傷を確認するため、魔女が機体を近くに寄せようとした時、警告音が二機のコックピットに鳴り響いた。
「レーダー警告!?」
「回避しろ!」
二機はチャフを撒き、急旋回で離脱しようとする。だが、片方の補助翼を失った機体は操縦者の要求に応えきれない。
超音速で近づくミサイルから逃れるには、あまりにも遅すぎた。炸薬と破片がライアーのフレームを裂き、外板を耕す。
「隊長!」
機体ががたがたと震え、計器が次々に異常な数値を表示する。
警告音の向こうから、魔女の悲しげな声が聞こえた。
「アヤメ……すまない」
エンジンが止まり、電力を失った計器盤から次々に光が失われていく。
その端に貼り付けられたお守りが振動で揺れていた。
「隊長!」
黒煙を吹きながら一番機は高度と速度を失っていく。魔女は何度も呼びかけるが、応答はない。
「隊長! 答えてください! 大尉っ!」
再びレーダー警告音が鳴った。
「くぅっ……」
魔女は機体を傾け、チャフを撒きながら急旋回でミサイルをかわす。


「あいつは……っ!」
生き残った方の機体を見たミハイルは目を見開いた。
――運命か。
機体の左翼には、あの忌まわしい魔女が描かれていた。
「ヤツの周波数に繋げ。他の通信は妨害しろ」
「バンド16B……繋がりました。電子妨害開始」
シェスタコフ中尉は命じられるまま、忠実に操作を実行した。黒い機体に埋め込まれた幾つものアンテナが妨害電波を発し、空域をノイズで埋め尽くした。


敵機を探し、魔女は周囲を見回す。
「聞こえるか『魔女』」
「誰!?」
静かなノイズだけが流れる周波数に男の声が割り込んできた。
戸惑う魔女の質問に男は答えなかった。
「名前はハヅキ・アヤメだったな。いや、『北海の魔女』と呼ぶほうがいいか?」
「誰だ!」
殺気立った声で返す魔女を無視し、男は言葉を続けた。
「すでに大勢は決した……だがお前だけは殺す」
魔女の機体のすぐ横に黒い戦闘機が浮かんでいた。ルドルフ基地で鷲が撃墜したあのコウモリのような翼をした戦闘機だ。
「っ!」
警告の一つも鳴らなかった。あの声の主はいつでも魔女を殺すことができたのにあえてそれをしなかった。
「今度は1対1だ」
敵機はそう告げると翼を翻した。機首のセンサーが暗闇に潜む猛獣の瞳のようにぎらりと光を反射した。
――よくも。
魔女は敵意に満ちた目を敵機に向ける。体は彼女の思考よりも早く反応していた。
右手の指が航法モードからドッグファイトモードにシステムを切り替える。
「エンゲージ」
答える人のいなくなった周波数に静かに呟き、魔女は機体を翻して敵機を追った。
敵機はルドルフ基地の時以上に機敏だった。ほんの数秒前まで100メートルほどしか離れていなかったはずなのに今は機関砲の射程外まで引き離されている。
――追いつけない……!
ライアーは十分なエンジン推力をもってはいるが、あの機体の凄まじい加速には追従できない。
敵機はこちらを十分に引き離すと、機首と後部胴体から何かを吹き出し、魔女の想像を超える速度で機首をこちらに向けてミサイルを放った。
レーダー警告音はない。
「くぅっ……」
魔女は躊躇うことなくフレアを放出し、ミサイルの進行方向に対して機体の軸線を垂直に傾ける。
フレアに惑わされ、ミサイルは魔女の機体から逸れた。
機体を立て直し、魔女が攻撃に転じようとした時にはすでに敵は再攻撃の準備を整え、再びレーダー誘導ミサイルを射かけてきた。
最後のチャフを撒いてミサイルを惑わす。今度は魔女の機体の近接防御システムがミサイルを検知し、次々に散弾を射出してミサイルを撃ち落とす。
幾度と無く二機が交錯し、飛行機雲が空中で複雑に絡み合う。
一対一の決闘には観客も審判もいない。ただ生き残ったほうが勝利する。
レイピアは高速を生かして幾度となくライアーを狙ってきた。魔女は警告音が鳴るたびに機体を揺らし、敵機の射線から機体を外す。
「いけっ!」
機体を立て直した魔女は加速しながら離脱を図る敵機を視界の中央に捉え、発射ボタンに載せた指に力を込めた。
アイリス空対空ミサイルが敵機の残した僅かな赤外線の痕跡を辿り、人間では耐え切れないような。
魔女の放ったミサイルは回避不可能なルートで敵機に吸い込まれていったが、命中することなく空中で爆発した。
「防がれた!?」
その空中爆発の仕方には見覚えがあった。
――アクティブ防御システム!
ルドルフ基地上空の戦いで自分を救った装置があの機体にも搭載されている。


アクティブ防御システムはミサイルの直撃を防いだが、細かな破片までは阻止出来なかった。
「あぐっ」
破片がレイピアに降りかかり、後席を襲った。
「リリア!」
ミハイルはとっさにシェスタコフ中尉を名前を叫んだ。
「ごほっ……少佐……申し訳ありません」
リリアは謝りながら傷口を押さえる。後席を覆っているディスプレイも損傷したのか、先程まで青空のあった場所が何箇所も黒く抜け落ちている。
「喋るな、傷が広がる」
前席のミハイルが励ます。
「すべての権限を前席に移します」
リリアは左手で残ったサブディスプレイを操作し、後席で操作していたシステムのアクセス権限をミハイルに委ねる。
「あの『魔女』を……斃して――」
――そして、生きてください。
薄れる意識の中、リリアはひびの入った空に手を伸ばす。
無機質な手応えの向こうに、あざ笑うように空を舞う水鳥の姿が映っていた。
「……いいだろう、これで1対1だ」
ミハイルはメインディスプレイに表示された残弾表示を確認した。赤外線誘導の短射程ミサイルが一発、30ミリ機関砲弾300発が残されている。
「ありがとう、リリア」
乗員を保護するためのすべての安全装備は解除されている。ミハイルは機体を旋回させ、魔女に向き直った。


魔女は荒く息を吐き、斜め上方を鋭く旋回していく黒い機体を睨んだ。Gスーツが下肢を締め上げ、ズキズキと痛む。
「はぁ……はぁ……」
旋回戦ではあの妙な機動で回りこまれ、速度ではあちらのほうが上だ。
――どうすれば……
一発は当たったようだが、アクティブ防御システムに阻まれたせいでどれほどのダメージを与えられたかはわからない。
魔女の機体には自衛用の対空ミサイルが二発装備されていた。一発をさっき発射してしまったから、今は右翼に残されたアイリス空対空ミサイルとストレーキに収められた27ミリ機関砲弾400発が魔女に残された武器だ。
防御に必要なフレアは残り一回分で、チャフはすでに使い果たしている。
黒い機体のウェポンベイにはあと何発のミサイルが残されているだろうか。機体の大きさからしてFI‐05以上の数を積んでいることは容易に想像できた。
黒い機体の影がこちらに正面を向けたのだ。
――ヘッドオン!
相手もこちらもすべての武器を発射できる。どちらが勝つかは分からない。
「ぐぅっ!」
魔女は右翼のランチャーに残された最後のミサイルを発射し、操縦桿を限界まで傾けて機体をロールさせるとラダーを踏みこんでトリガーに指をかける。
――1発だけでいい、当たって。
ライアーの右ストレーキに収められたリボルバーカノンがうなり、27ミリ砲弾をばら撒く。機体が横滑りしているせいで狙って当てるのは困難に等しい。
黒い機体はまっすぐに突っ込んでくる。主翼の膨らみが開き、中から白いものが飛び出した。
「いけええええええええっ!」
――隊長、見ていてください。
魔女はスロットルを最大まで押しこみ、敵機を正面に捉えると胸からさげたお守りを左手で握りしめた。
二機が交錯し、勝敗は決した。


徹甲弾がエンジンを貫き、爆発音と共に敗者の右翼は炎に包まれた。
『エンジン損傷』
無機質な機械音声が敗北の事実を突きつける。
――私の負けだ……
右エンジンの推力が失われ、機体が物理の法則に従って横滑りを始める。
警告音が響き、乗員の脱出を促す。
「脱出するぞ」
ミハイルは後席に脱出を指示するが、返答がない。
「リリア?」
「……さきほどのミサイルで脱出装置が損傷しました。前席をこちらから射出します」
「駄目だリリア!」
ミハイルの制止を振り切り、リリアはサブディスプレイを操作し、操縦席の手動射出を選択する。
「少佐、さようなら――」
「リリアっ!」
リリアはゆっくりとひび割れたディスプレイに触れ、最終確認のボタンを押した。
前席のキャノピーがはじけ飛び、風切り音でそこから先は聞き取れなかった。
「ずっとあなたのことが好きでした」
ロケットモーターがミハイルの座席を空中に打ち出す。
それを見送ったシェスタコフ中尉は穏やかな笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。


「やった……」
黒い機体は炎に包まれ、黒煙を引きながら重力に引かれるがまま海へと落ちてゆく。
「ゴライアスよりエコー1、応答せよ。そちらの信号が途絶えた。状況報告を」
それまで何も聞こえなかったレシーバーから再び味方の声が聞こえた。
「こちらエコー2、エコー1が敵機に撃墜されました。大至急救助を要請します!」
誰でもいい、とにかく鷲を助けてくれる存在なら神でも悪魔でも良かった。
「了解、救難機を要請しておく。最寄りのロジーマス基地へ向かえ」
「ありがとう……ございます」
魔女は機体を北西へと向ける。
黒い機体の爆ぜた音が背後で聞こえた。



エピローグ


共和国 モスクワ 201Y/5/16 08:58 共和国軍総司令部 

書記長は司令部のひときわ大きな椅子に腰掛け、次々に飛び込んでくる知らせに表情一つ変えることなく静かに耳を傾けていた。
「ソビエツキー・ソユーズおよびウリヤノフスクからの通信途絶」
「我が艦隊、損耗率30%を突破」
――旗艦をやられたか。
将軍たちの見込みはやはり甘かった。彼らが新型戦闘機と空母航空隊で蹴散らすと言っていた王国艦隊はいまだ健在で北海を守っている。
「書記長?」
「少し休む。三時間したら起こしてくれ」


自分の執務室に戻った書記長はペンを取り、机の上に置かれていた書類の裏に一筆したためた。
そしてデスクの引き出しからあるものを取り出し、じっとそれを見つめた。
護身用のグラッチ自動拳銃は机の上で鈍く明かりを反射している。
――皮肉なものだ。
自分の命を護るための自動拳銃をこめかみに押し当てた書記長は自嘲し、目を閉じて人差し指に力を込めた。


王国 王都 201Y/5/16 10:17 宮殿


老王はいつものように窓際に立ってロンドンの旧市街を見ていた。
市民のいなくなった王都は静かで、窓の外でさえずる鳥の歌が耳に心地よかった。
「陛下!」
「どうした」
荒々しいノックの音に老王はドアの方を振り返った。
付き人が何かの紙を握り、肩を上下させながら入ってきた。
「空軍の戦闘機が北海で敵主力艦二隻を撃沈したとのことです。共和国は最後の切り札を失いました。我々の勝利です!」
付き人に渡された報告書に目を通した老王は満足げに目を細めた。
「そうか……シャンパンを出してくれ。グラスは二つだ」
「かしこまりました」
従者は静かにドアを閉め、シャンパンを取り戻っていった。
「この戦争、勝ったな」
老王は窓を開け、肺一杯に空気を吸いこんだ。
――沈めたパイロットには何か勲章を授与しなければならないな。
勲章だけではない。ナイトの称号も授与すべきかもしれない。
ともあれ、今頃クレムリンで顔を真っ赤にしている共産主義者たちの顔を想像すると自然と笑みが浮かんだ。
「ふふふ……うっ!?」
老王は何かが弾ける音を聞いた。
声が、出ない。
「あ、か……」
足がもつれ、老王は机の角にしたたかに頭をぶつけた。ひどい痛みに顔をしかめるが、呻き声の一つも出なかった。
「陛下、シャンパンをお持ちしました」
ワゴンにグラスとよく冷えたシャンパンを乗せた従者が戻ってきた時、王の姿はなかった。
「陛下……?」
部屋の中を探す付き人の足に何かが触れた。足元に目を向けると、そこには老王が倒れていた。
頭から流れだした血が絨毯に赤い染みを広げている。
「陛下!? 私だ、陛下がお倒れになられた! すぐに医者を呼べ!」
付き人はインカムにそう叫ぶと、何度も老王を揺すった。


二人の老人は倒れ、戦争は終わった。


魔女は何も考えられないまま、ロジーマス基地で十日間を過ごした。すべての物事が非現実的で、テレビ画面の中で起こっているように感じられた。
旗艦を失い、さらに数隻の主力艦を喪失した共和国艦隊はその後あっけなく降伏。
ほぼ同時刻に共和国の書記長が即時戦闘停止の命令を残して自殺。
王国の老王は脳出血で倒れているのを発見され、意識の戻らないままこの世を去った。
二つの超大国の象徴的なトップの死は双方の国民、兵士に大きなショックを与えた。
『本日、総統と共和国書記長代理との間で正式に停戦文書が交わされ、戦争は終結しました』
テレビからは終戦を伝えるアナウンサーの穏やかな声が聞こえる。
『それに合わせ、来週末にも捕虜の引渡しが始まる予定です。既に国防省から戦闘中に捕虜となったと推測される将兵の各家庭あてに案内を送付する準備ができているとのことです』
戦闘記録を書き上げた魔女はぼんやりとした表情でそれに耳を傾ける。
『また、戦闘集結に合わせ、共和国領内の我が軍も段階的に撤退を行なっていく予定です』
ハヅキ中尉、ライチェ中佐が15時にオフィスに来るようにとのことです」
「わかりました、と伝えて」
魔女は息を吐き、ノートパソコンの画面を閉じた。


共和国 ブレスト近郊 201Y/5/28 9:36 


「なんだか、よく分からない戦争だったな」
トラックに揺られながら、ランバート少佐はタバコに火をつけた。撤収していく王国軍の車列には装甲車や偵察車両も含まれており、皆一様に西を目指してひた走っていた。
「同感です」
隣に座っているロートマン上等兵が頷いた。
「呼び出されて戦争がおっ始まったと思ったら、今度はいきなり終戦とはな」
戦闘停止が発令された時、彼らの部隊はちょうどミンスクの旧市街で敵の陣地を制圧しているところだった。
陣地制圧のさなか、震える敵兵に銃剣を突きつけた所で全部隊あてに戦闘中止が命令された。
「あの敵兵、まだ20にもなってなかったそうですよ」
「前途ある若者……か」
紫煙を吐きながらランバート少佐は呟いた。
一体何人の若者が家を失い、家族を失い、命を落としたのか。
彼の部隊だけでも18人が戦死し、その倍の負傷者が出た。中には手足を失ったり大火傷を負ったものもいる。
「なんで今さら銃なんか磨いてるんだ」
ロートマン上等兵はハンカチでライフルのストックについた泥汚れを拭き取っていた。
「こいつに何度も危ないところを救われたんです。次にこれを使う奴のために綺麗にしてやらないと」
「願わくば、そんな日がこないことを祈るよ」
そう言うとランバート少佐はトラックの幌に背中を預けて目を閉じた。
ほんの数時間だったが、彼は戦争が始まってから初めて他人に起こされるまで眠った。


共和国 モスクワ近郊 201Y/5/28 10:08 


「遅かったな」
背後の気配に気づいたミハイルはゆっくりと振り返る。
黒いスーツに身を包んだエージェントが四人、立っていた。
「ミハイル・アレクセイヴィチ・サフォーノク少佐、あなたを逮捕する」
ミハイルに拳銃を向けているエージェントの一人が言った。
「罪状は何だ? 平和に対する罪か? 人道に対する罪か? それとも他の罪か?」
エージェントたちは何も答えず、ミハイルの動きを待つ。
「逃げはしない、自らの罪を償う覚悟はできている」
ミハイルは腰につけていた拳銃を抜く。三人のエージェント達もホルスターから拳銃を抜き、ミハイルに向ける。
「裁判にかけるなり、シベリアに送るなり柱に吊るすなり好きにしてくれ」
ミハイルは拳銃をくるりと手のひらの中で回転させ、スライドを握ってエージェントに手渡した。
――それが、私の贖罪だ。
「協力に感謝する」
ミハイルの背後で『リリア・シェスタコフ』と刻まれた墓標に捧げられた白百合の花束が初夏の風に揺れた。


中東 アル・ラジフ空軍基地跡地上空 201Y/5/28 13:08 A400M 10-0193号機 "ポーター3"


北極星のマークを翼につけ、灰色に塗られた輸送機が砂漠の上を優雅に泳ぐ。
リーデル大尉、これ以上の接近は無理です! ここでお願いします」
「ランク」
狂鳥の自慢の金髪を風が乱暴に撫でる。彼女自身の希望で、爆心地周辺の放射線レベルを観測する輸送機に便乗していた。
「わかった」
ランクは膝の上に置いていたものを右手に持ち、輸送機の簡易椅子から立ち上がる。
ハッチに近づくと風でフライトスーツがバタバタと揺れた。
手すりを掴み、松葉杖を握って簡易椅子に腰掛けたままの狂鳥に目を向ける。彼女もゆっくりと頷いた。
――さようなら。安らかに、眠れ。
輸送機のハッチから静かに花束が捧げられ、風圧で花びらを散らす。
砂漠の中にぽっかりと生まれたクレーターと廃墟、かつて『アル・ラジフ空軍基地』と呼ばれていた場所、1500人分の墓標にゆっくりと花束が吸い込まれていく。
「こちらポーター3、放射線レベルの測定並びに花束の投下完了。これよりアレクサンドリアへ帰投する」
皮肉なことに、観測機はあの日アル・ラジフ基地を飛び立って難を逃れた輸送機だった。


王国 ロジーマス航空基地 201Y/5/28 14:58 作戦室


「失礼します」
魔女がライチェ中佐のオフィスに入ると、すでに中には技術将校と海軍の戦闘服をきた将校が三名立っていた。
「こちらはハヅキ中尉、例の滑空爆弾を落とした隊のパイロットです」
ライチェ中佐に紹介され、魔女は小さく会釈した。その背で黒い髪が揺れる。
「先ほど例の滑空爆弾が回収されました」
「弾頭は……何だったんでしょうか?」
魔女は率直に質問した。
「核です」
技術将校の答えに魔女は言葉を失った。
「……っ!」
「レッドハンマー自由落下核爆弾、これまで確認されているうち最も大きな戦術核兵器です。これがロンドンに落ちていれば大惨事でした」
鷲は自らを危険にさらして、市民を守ったのだ。
「隊長……ヘンシェル大尉は」
「機体の残骸は発見されました。クレッチマー少尉、例のものを中尉にお渡しして」
海軍の将校が足元の紙袋の中から青紫色の残骸を取り出した。
ところどころ焼け焦げたジュラルミン製の部品は紛れもなくライアーの一部分だとわかった。
「それと、浮遊物の中にこれが……」
ビニール袋に入れられたお守りを渡された時、魔女は意識が現実に引き戻されるのを感じた。
「それはあなたにお渡しします。話は以上です」
「ありがとうございます」
魔女はそれを受けとると、ゆっくりと歩き出した。


行き先はわからない。ただ、誰もいない場所に行きたかった。
基地のはずれにある飛行艇用の埠頭で魔女は足を止めた。
「嘘つき……」
魔女はそう呟き、左手の中にあるお守りをきつく握りしめた。中に染みていた海水が数滴、彼女の足元に零れ落ちる。
さっと海風が吹き、彼女の頬を撫でる。


その頬を一筋の光が伝った。